衣食住の「衣」に関して9月くらいから書こうと思っていたこと

シルバーウィークにスパやインフィニティプールが売りのホテルに泊まりに行った時に、装いについて色々思うところがわいてきて、ちゃんと書き留めておこうと思っていたらもう12月直前である…

  • スカート率
    チェックイン時、ふんわりしたワンピースを着た女性を多く見かけ、淡い色のワイドパンツの自分は一応リゾート風を意識したつもりだったのに明らかに浮いていて意外だった。(あと、今住んでいるところも同様に、どちらかというとフェミニンな装いの女性が多い気がして自分はとても居心地が悪い。デイリーメールが報じたNYの小室夫妻の装い、私は嫌いではないのだがああいう雰囲気は少数派。東京の西の方に行くとまた違うのだろうか…)

  • チークの位置
    スパやプールではマスクを外してもいいことになっていたので(ほとんどの客がマスクを外してくつろいでいた)、久しぶりに「大勢の他人のマスクなしの顔」を見て妙な気分になった。そのとき、おそらくマスクをしていてもチークをつけていることが分かるようにメイクをした結果、チークの位置がおかしい(高すぎる)ことになっている人を見かけてぎょっとした。マスクで化粧のトレンドに変化が生じている、という話は既に嫌になるほど沢山記事があると思うのでこんなこと書くまでもないかもしれないが(自分はというと去年のどこかでチークブラシ自体を捨ててしまい長らくチークから縁遠くなっていた。先日ようやく新しいのを買った)。

  • 泊まりの荷物は何に入れる?
    私はパッキングが苦手なので、2泊3日の荷物を小さくまとめることができず、大きめのキャリーに雑に突っ込んできたので自分自身だってちっとも優美ではないのだが、周囲の客の様子を見ると、いずれも「泊まりの大きな荷物をどうやって持ち運ぶか」という点ではあまり洗練されていない感じがした。というのも、衣類の福袋に使われていそうな不織布の大きなバッグ、というと想像がつくと思うのだが、ああいうのに荷物をどさっと入れている人が多かった。しかも自家用車やレンタカーだから荷造りにこだわらなくてもいい、という様子でもなく、その不格好に膨らんだ福袋バッグで電車に乗る感じ。
    ずっと前、「月曜から夜更かし」で雑誌やムックの付録のバッグが充実するようになってからバッグが全然売れなくなっているという話をしていたけど、特に「1泊~2泊くらいの荷作りに最適なバッグ」は苦戦しているのではないかと思った。自分もそうだし。でも福袋バッグや荷物のサイズと不釣り合いなキャリーが、せっかくの旅行の雰囲気を少し削いでしまっているのは間違いないので、潰しがきくように30L~40L位のリュックを買おうと考えている。

読むことで救われる人とそうでない人

少し前のこと。母親とのLINEで、親族(父方の祖母)の認知症のことで両親と叔父夫妻が何とかやってはいるけど結構疲れているという話を知った。すぐに村井理子さんのツイートや連載のことが思い出されたので、村井理子さんの義父母の介護記録はおもしろくてためになりますよ、とこの記事のリンクを送った。

yomitai.jp

これに対し、母親からは「そんなんすぐ出てくるところ、さすがだいもんじちゃんやな!」という返事がすぐに来た。私が文章を読むのが好きなことを母親はよく理解してはいるものの、その返信からは何となく「求めていたのと違うソリューションを提示された」という雰囲気が読み取れた。そのやりとりの少し前には「おばあちゃんに関しては文字化したくない苦労がいっぱい」とあり、それがまさに母親の気持ちの核心というか、私が本当にすべきだったのはすぐに電話をかけて、祖母のことに関する話であろうとなかろうと、母親の気が済むまで好きなことをしゃべらせてひたすら傾聴することだったのだと思う。でもそれはめちゃくちゃこっちにとってもエネルギーのいることなんや…

私は何か辛いことがあったとき、自分のと似たような体験が綴られた文章を読むことが大変救いになると常日頃から感じているが、そうでもないというか、それ以外の方法でつらさを解消するほうが確実ないし手っ取り早いと考えている人も少なからずいる。文章を読んで何か考えることは何物にも代えがたいとは思うものの、そのことも忘れないようにしたい。

 

 

2021.6.2

在宅勤務である。休職前に通勤していた頃よりも超勤は確実に減っているし、何より通勤時間がなくなった分、生活に余裕が出ることを期待していたが全くそんなことはないので、一体その分の時間は何に消えているのかよくわからない。


身体の疲れは軽減されているのは間違いないし、睡眠時間も以前より確保できているはずだが、通勤していたときよりも何というか「追われている」感じがする。
特に今は繁忙期ではなく、また勤務時間中の素行というか、箸の上げ下げまで監視するような風土の職場ではないので、手を抜こうと思えば正直どこまでもサボれる。しかし、自分の視界に入っていないところで同僚に差を付けられていそうだな、という焦りは相当ある(休職から復帰したばかりなので尚更)。

それに加え、ごく直近まで家事に専念する立場だったこともあり、「ああ~あっちもこっちも埃とか髪の毛落ちているな…もう少し掃除したいな」とか「今日晴れてるしおしゃれ着の手洗いやっときたいな」とか「美味しいものを作って食べたいな」という欲?義務感?をどうもコントロールし切れていない。夕方になると晩ご飯の用意をしないとな…とモゾモゾしてくるが、多くの同僚はコミュニケーションアプリのステータスで判断する限り19時以降も「応対可能」になっているので、えーみんなご飯どうしているんだろうというのは大いに気になる。雑談は推奨されているものの、そういうことをおおっぴらに聞ける雰囲気でもない。

毎日会社に通うのはつらかったが、全然おいしくないけれど社食があり、またオフィスの掃除のことを気にする必要はなかったので、仕事に集中する環境(だけ?)は確保されていたのだと痛感する。ただ復職して少し時間が経ち、繁忙期ではない余裕のあるときにやるべきことがたくさんあることにようやく気づいてきた。やることができれば埃などは、少なくとも日中は目に入らなくなる。多分。

 

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まだ家具が揃っておらず、逆に処分したい家具などもあるし、また家具が揃っていないことで行き場のない家財も多くあり、要するに家は「落ち着いている」状態にはほど遠く、そのメンテナンスに時間を割くべきなのだが、ちょっと本を集中して読むぞと決め、40分ほど付箋を貼りながら本に向かっていた。読書でストレスが軽減されるというのを久々に実感した。

2021.6.1

『女帝』の感想を投稿して以来、ブログを放置してしまっていたことは自覚していた。大学生の頃はブログを毎日更新するのが楽しみで、軽薄なものであったとしても書きたいことも文章もどんどんわいてきていたのだが、年を取るにつれてそういうことに興味を失っていった(同様の変化は以前にも経験がある。幼い頃は狂ったように絵を描いていて、描きたいものもエネルギーも無尽蔵にあったのに、高校生くらいからそういうことはなくなっていった)。ただ、2020年の途中あたりから自分がすごく変わってきているのではないか、というか自分に起きているいろいろな変化は要するに"老い"ではないのか?、またそれは何らかの形で書き留めておいたほうがいいのではないかと思うようになった。

長い間A4の一日一ページの手帳を使っていて、そこに一応日々の日記を、時間がないときは食べたものだけでもメモするようにしていて、それにもそこそこ時間を費やしているのに、それに加えて「人に見せる用の日記」までやる意味はあるのか、他のことをするべきではないのか、とも思う。一方で仕事のお作法に染まった文書以外に何も文章を書く機会がないのもなんだかまずいような、それこそ「老いを加速させる」ような気がしている。
(ブログを書く習慣を失ってからも友人に手紙を書くのは好きだった。日記とブログと手紙はそれぞれぜんぜん違うものだが、ともかくそれなりに長い文を書くことに抵抗がなかった。何年か前からそれも苦痛になった、というと友人に失礼になってしまうかもしれないが、何を書いて良いのかわからないとか、自分の書いた手紙はひどくつまらない内容だと思うようになった)

何にもっとも老いを感じているかというと、本がとにかく読めなくなったこと。根気が続かない。おもしろそうな新刊をチェックして買う、まではできるが、読了に至らない。3~4割読んだところで、そもそもこれは何の話をしている本だったっけ…というのがだんだんわからなくなってきてそこで手が止まってしまう。もちろんスマホに気を取られて、一定時間以上本に向かっていられないというのも顕著なのだが。よく「本は若いうちに読め」と言われているのって、もしかしてこのことなのか?と思ってゾッとしている。加えてページをめくっているとどうも飛蚊症が気になる(一応検査はしたが特段悪い話は今のところ出てきていない)・すぐ眠くなる…というのも今までになかったこと。

こんな辛気くさい話を人に読ませるのも気が引けるが、とりあえず記録する。

石井妙子『女帝 小池百合子』(文藝春秋、2020)

コロナウイルスで気の塞ぐ日々が続く中、小池百合子の評伝が発売されると四月中旬に知って以来、楽しみにしていた。私のように、ワールドビジネスサテライトに出演していた頃の小池を知らず、最初から自民党の人だと思っていた、という世代の人間でも無理なく読める本だった。

 

私は現在日本国外で生活しているが、小池が報道陣に言い放った「密です!」発言や、「いのちを守るSTAY HOME週間 ~STAY HOME, SAVE LIVES~」というキャッチフレーズが大変に注目されたことはSNSを通じてこちらにも伝わってきていた。

 

二枚の布マスクや「うちで踊ろう」のコラボ動画で安倍官邸が批判の嵐に見舞われたのとは対照的に、小池の放つ言葉は「密です!って言ってみたい」「密です(フロア熱狂)」「百合子のライブツアーみたいじゃん」(のつぶやきから、架空のライブツアーの日程・架空の予想セットリスト・架空のライブグッズリストなどが次々とSNS上で生み出される)など、概ね「なんとなくポジティブに、面白がって受け止める空気」を生み出していたと思う。

 

本書の「第四章 政界のチアリーダー」には、一九九二年に小池が日本新党から参議院選挙に出馬し当選した際、初登院日の自身の演出に工夫を凝らしたことが描かれている。

 

当日、彼女が選んだのはサファリ・ルックだった。(中略)緑色のジャケットにヒョウ柄のミニスカートを合わせた。

狙いどおり記者やカメラマンが殺到し、「どうしてそういう服装で」と問われた。小池は用意してきた答えを投げてやった。

「国会には猛獣とか珍獣とかがいらっしゃると聞いたので」

記者たちは大喜びで小池を大きく扱った。小池に聞けば、見出しになるようなコメントを言ってくれる。以後、テレビや週刊誌、スポーツ新聞の記者たちに彼女はエサを与え続ける。

 

これを読んで、ああ、「密です」などの反響は、彼女にとっては計算済みのこと、してやったりなんだろうなと感心した。昔は自ら雑誌に連載を持ったり(上記の初当選直後、小池は三つの週刊誌にコラムの連載を開始した)、積極的に取材を受けるなどして自分をメディアに売り込み存在感を高める必要があったが、SNS全盛期の今は選挙民全体もまたメディア化して、自身を盛り上げに貢献してくれる。

 

直近では堀江貴文の都知事選出馬可能性について記者にコメントを求められ、小池は「まあ賑やかなこと」と目を細めて返答し、「強キャラだ!」と私たちは喜んだ。全員がまさに望むとおりの展開だろう。しかし、それは何かの目くらましにはなっていないだろうか。

 

いきなり中盤から引用してしまったが、本書は政界入りする前の小池の経歴も念入りに取材している。エジプト留学時代は、ゴルフやテニスを通じて日本からやってくる大手企業の駐在員やマスコミ記者との人脈形成に熱中し、そのコネと『カイロ大学首席卒業』の“肩書き”(なお本書ではこれまで何度となく噂されてきたカイロ大学首席卒業の真偽についても追究している)を生かして帰国後はテレビ番組へのレギュラー出演を勝ち取る。

 

留学時代に熱心に学問に取り組んだ様子はなく、それを恥じる気持ちも読み取れない。その一方で、未熟な学生の身分でありながら、外交やビジネスの重要な局面に自身をねじ込もうとする場面が多々見られる。派手好きで人脈と肩書き作りに余念がなく、最小の努力で最大の手柄を得ようとする、現在の「意識高い系」の先駆者とも言える。小池は、「意識高い系」が(一部の人間には相当疎まれながらも)幅をきかせている、今の日本を覆う気分の象徴なのではないか。

 

政界入りした小池は、細川護熙、小沢一郎、小泉純一郎と取り入る相手も所属する党もとっかえひっかえし、政界での地位を固めていく。選挙運動中はたびたび「おっさん政治との決別」を唱えるが、その実、女性の代表として行動しようとする意識は希薄だ。おっさんが思う「女性の武器」(美貌や媚び等)を駆使して、たくさんのおっさんの中の紅一点としてもてはやされた上で、自分だけがのし上がるという願望しかない。目立つ女性は自分以外には要らないので、女性どうしで連帯しようとするわけでもない。

 

一方で、小池の本質に気づかず、この人なら今まで届かなかった自分の声を政治に反映させてくれるのではないか、と期待した人々(とりわけ女性たち)がことごとく裏切られていることが繰り返し描かれる。

 

阪神・淡路大震災の影響で困窮し、国会へ陳情に訪れた地元・芦屋市の女性たち、環境大臣時代の小池と対面した水俣病患者とアスベスト被害者、築地市場移転問題で翻弄された「築地女将さん会」のメンバーなどがそうである。小池が一旦は彼ら彼女らの意見に耳を傾けたように見えても、実際に提示した政策にはそれが全く反映されておらず、また「あのとき小池さんはこうおっしゃったじゃないですか」と言質を取られそうになると「そんなことは言っていない」と平然と言い返す。その傲岸な態度がまた怒りを買う。人の苦しみを理解し、寄り添おうとする姿勢は全く感じられない。

 

ここまで読むと、学歴詐称問題のインパクトすら、霞んでくるように感じられる。学歴詐称は悪質で不誠実だが、他人を直接傷つけているわけではない(ただし、エジプト留学時代の小池とルームシェアをしており、著者の取材に対して重要な証言を残している女性は、小池が学歴やエジプトでの経験について事実と異なる発言を繰り返していることに気づいていながら、それを誰にも言えずに数十年を経てしまったことを後悔し続けている)。

 

何の後ろ盾もないところから文字通りのし上がってきた経歴は、世襲議員が中心の政界では異色だが、小池のような“活躍”のありようは決して美談やロールモデルとされるべきではないだろう。ただし、私が去年まで働いていた職場には、「女性活用推進」の象徴としてもてはやされていた管理職の中に、小池の振る舞いを彷彿とさせるような存在が複数いた(もちろん、男性陣の中にもいた)。世の中至る所に彼女と似た気配がありはしないか。「第五章 大臣の椅子」の自民党の女性議員による小池評、ああ、ウチにもこんな人いるいる、と思われた方は少なくないのではないか。

 

「実効性を無視し人が手を付けていないことをやりたい、というお気持ちが強い。自分が一番で自分が先駆者だと言えることをやろうとする。あるいは、人が先鞭をつけたことでも自分の手柄のようにしてしまう。いつも肝心なことではなくて、どうでもいいことに、熱心でいらっしゃるように見える」

 

そして私自身もまた、男性の多い職場で、小池同様「おっさんの価値観」を内面化することで傷つくことを回避し、問題を先送りしてきたところはないかと自問自答している。

 

本書は令和の「淋しき越山会の女王」(※)になりうるのだろうか。小池には、結局何もかもスッとかわされてしまいそうな気がする。小池とエジプトで同居していた女性が、小池について「相手が期待することを言ってあげた、相手の喜ぶことを言ってあげた。それでどうして、私が責められなきゃいけないの?そう思っているのかもしれない。」と指摘している通りだ(第七章 イカロスの翼)。それでも、パフォーマンスにごまかされ続けている今の日本社会そのものを見直す契機が生まれてほしいと強く思う。

 

最後に。本書発売直前の『週刊文春』のインターネット記事で、本書が小池の過去の恋愛についても言及していることが示唆され話題となった。つい下品な興味本位で、いつその話が出てくるんだろうと思いながら読んでいたが、それまで呆れや怒りの感情が止まらなかったにもかかわらず、劇的な書き方がされていたこともあり、その箇所を読んだ際は涙が出て自分でも驚いた。そこまでしないと自分を捨てた男に勝ち、心の傷を癒やせたという実感を得られないのものだろうか、と。

 

(※)私は田中政権期のリアルタイムに読んだわけではない(生まれていない…)が、倒閣につながった記事として語り継がれていることに強い関心がある。