石井妙子『女帝 小池百合子』(文藝春秋、2020)

コロナウイルスで気の塞ぐ日々が続く中、小池百合子の評伝が発売されると四月中旬に知って以来、楽しみにしていた。私のように、ワールドビジネスサテライトに出演していた頃の小池を知らず、最初から自民党の人だと思っていた、という世代の人間でも無理なく読める本だった。

 

私は現在日本国外で生活しているが、小池が報道陣に言い放った「密です!」発言や、「いのちを守るSTAY HOME週間 ~STAY HOME, SAVE LIVES~」というキャッチフレーズが大変に注目されたことはSNSを通じてこちらにも伝わってきていた。

 

二枚の布マスクや「うちで踊ろう」のコラボ動画で安倍官邸が批判の嵐に見舞われたのとは対照的に、小池の放つ言葉は「密です!って言ってみたい」「密です(フロア熱狂)」「百合子のライブツアーみたいじゃん」(のつぶやきから、架空のライブツアーの日程・架空の予想セットリスト・架空のライブグッズリストなどが次々とSNS上で生み出される)など、概ね「なんとなくポジティブに、面白がって受け止める空気」を生み出していたと思う。

 

本書の「第四章 政界のチアリーダー」には、一九九二年に小池が日本新党から参議院選挙に出馬し当選した際、初登院日の自身の演出に工夫を凝らしたことが描かれている。

 

当日、彼女が選んだのはサファリ・ルックだった。(中略)緑色のジャケットにヒョウ柄のミニスカートを合わせた。

狙いどおり記者やカメラマンが殺到し、「どうしてそういう服装で」と問われた。小池は用意してきた答えを投げてやった。

「国会には猛獣とか珍獣とかがいらっしゃると聞いたので」

記者たちは大喜びで小池を大きく扱った。小池に聞けば、見出しになるようなコメントを言ってくれる。以後、テレビや週刊誌、スポーツ新聞の記者たちに彼女はエサを与え続ける。

 

これを読んで、ああ、「密です」などの反響は、彼女にとっては計算済みのこと、してやったりなんだろうなと感心した。昔は自ら雑誌に連載を持ったり(上記の初当選直後、小池は三つの週刊誌にコラムの連載を開始した)、積極的に取材を受けるなどして自分をメディアに売り込み存在感を高める必要があったが、SNS全盛期の今は選挙民全体もまたメディア化して、自身を盛り上げに貢献してくれる。

 

直近では堀江貴文の都知事選出馬可能性について記者にコメントを求められ、小池は「まあ賑やかなこと」と目を細めて返答し、「強キャラだ!」と私たちは喜んだ。全員がまさに望むとおりの展開だろう。しかし、それは何かの目くらましにはなっていないだろうか。

 

いきなり中盤から引用してしまったが、本書は政界入りする前の小池の経歴も念入りに取材している。エジプト留学時代は、ゴルフやテニスを通じて日本からやってくる大手企業の駐在員やマスコミ記者との人脈形成に熱中し、そのコネと『カイロ大学首席卒業』の“肩書き”(なお本書ではこれまで何度となく噂されてきたカイロ大学首席卒業の真偽についても追究している)を生かして帰国後はテレビ番組へのレギュラー出演を勝ち取る。

 

留学時代に熱心に学問に取り組んだ様子はなく、それを恥じる気持ちも読み取れない。その一方で、未熟な学生の身分でありながら、外交やビジネスの重要な局面に自身をねじ込もうとする場面が多々見られる。派手好きで人脈と肩書き作りに余念がなく、最小の努力で最大の手柄を得ようとする、現在の「意識高い系」の先駆者とも言える。小池は、「意識高い系」が(一部の人間には相当疎まれながらも)幅をきかせている、今の日本を覆う気分の象徴なのではないか。

 

政界入りした小池は、細川護熙、小沢一郎、小泉純一郎と取り入る相手も所属する党もとっかえひっかえし、政界での地位を固めていく。選挙運動中はたびたび「おっさん政治との決別」を唱えるが、その実、女性の代表として行動しようとする意識は希薄だ。おっさんが思う「女性の武器」(美貌や媚び等)を駆使して、たくさんのおっさんの中の紅一点としてもてはやされた上で、自分だけがのし上がるという願望しかない。目立つ女性は自分以外には要らないので、女性どうしで連帯しようとするわけでもない。

 

一方で、小池の本質に気づかず、この人なら今まで届かなかった自分の声を政治に反映させてくれるのではないか、と期待した人々(とりわけ女性たち)がことごとく裏切られていることが繰り返し描かれる。

 

阪神・淡路大震災の影響で困窮し、国会へ陳情に訪れた地元・芦屋市の女性たち、環境大臣時代の小池と対面した水俣病患者とアスベスト被害者、築地市場移転問題で翻弄された「築地女将さん会」のメンバーなどがそうである。小池が一旦は彼ら彼女らの意見に耳を傾けたように見えても、実際に提示した政策にはそれが全く反映されておらず、また「あのとき小池さんはこうおっしゃったじゃないですか」と言質を取られそうになると「そんなことは言っていない」と平然と言い返す。その傲岸な態度がまた怒りを買う。人の苦しみを理解し、寄り添おうとする姿勢は全く感じられない。

 

ここまで読むと、学歴詐称問題のインパクトすら、霞んでくるように感じられる。学歴詐称は悪質で不誠実だが、他人を直接傷つけているわけではない(ただし、エジプト留学時代の小池とルームシェアをしており、著者の取材に対して重要な証言を残している女性は、小池が学歴やエジプトでの経験について事実と異なる発言を繰り返していることに気づいていながら、それを誰にも言えずに数十年を経てしまったことを後悔し続けている)。

 

何の後ろ盾もないところから文字通りのし上がってきた経歴は、世襲議員が中心の政界では異色だが、小池のような“活躍”のありようは決して美談やロールモデルとされるべきではないだろう。ただし、私が去年まで働いていた職場には、「女性活用推進」の象徴としてもてはやされていた管理職の中に、小池の振る舞いを彷彿とさせるような存在が複数いた(もちろん、男性陣の中にもいた)。世の中至る所に彼女と似た気配がありはしないか。「第五章 大臣の椅子」の自民党の女性議員による小池評、ああ、ウチにもこんな人いるいる、と思われた方は少なくないのではないか。

 

「実効性を無視し人が手を付けていないことをやりたい、というお気持ちが強い。自分が一番で自分が先駆者だと言えることをやろうとする。あるいは、人が先鞭をつけたことでも自分の手柄のようにしてしまう。いつも肝心なことではなくて、どうでもいいことに、熱心でいらっしゃるように見える」

 

そして私自身もまた、男性の多い職場で、小池同様「おっさんの価値観」を内面化することで傷つくことを回避し、問題を先送りしてきたところはないかと自問自答している。

 

本書は令和の「淋しき越山会の女王」(※)になりうるのだろうか。小池には、結局何もかもスッとかわされてしまいそうな気がする。小池とエジプトで同居していた女性が、小池について「相手が期待することを言ってあげた、相手の喜ぶことを言ってあげた。それでどうして、私が責められなきゃいけないの?そう思っているのかもしれない。」と指摘している通りだ(第七章 イカロスの翼)。それでも、パフォーマンスにごまかされ続けている今の日本社会そのものを見直す契機が生まれてほしいと強く思う。

 

最後に。本書発売直前の『週刊文春』のインターネット記事で、本書が小池の過去の恋愛についても言及していることが示唆され話題となった。つい下品な興味本位で、いつその話が出てくるんだろうと思いながら読んでいたが、それまで呆れや怒りの感情が止まらなかったにもかかわらず、劇的な書き方がされていたこともあり、その箇所を読んだ際は涙が出て自分でも驚いた。そこまでしないと自分を捨てた男に勝ち、心の傷を癒やせたという実感を得られないのものだろうか、と。

 

(※)私は田中政権期のリアルタイムに読んだわけではない(生まれていない…)が、倒閣につながった記事として語り継がれていることに強い関心がある。